เข้าสู่ระบบステンレスの器を洗い終えた頃には、台所の時計は七時を回っていた。
冷たい水に晒された指先は赤く腫れ、ひび割れた親指のガーゼには味噌汁の色が滲んでいる。紬は蛇口を締め、器を水切り籠のいちばん下へ伏せた。茶碗や汁椀と同じ高さへ置けば、八重に叱られる。犬のものを人間の食器と一緒にするな、と。
三年前に犬が死んでから、それを使っているのは紬だけだった。
背後を振り返る。
八重は岩蔵の部屋へ戻り、繁政も新聞を抱えて居間へ移っていた。束の間、台所には冷蔵庫の低い唸りだけが残っている。
紬は床へ落とされた白い封筒を、作業台の隅で開いた。
一万円札が五枚。
一度数えた金を、もう一度数える。重なった紙幣の端を親指で送り、五枚目まで確かめても、六枚目が現れることはなかった。
封筒の表には、金額も宛名もない。
紬は戸棚の奥から、小さな青い手帳を取り出した。表紙には油染みがつき、角が丸く潰れている。八重が台所を調べる時にも触れないよう、乾物を入れた缶の底へ隠しているものだった。
新しい頁に日付を書き、《生活費 50000円》と記す。
米。味噌。肉や魚。野菜。牛乳。十人分の食費だけではない。
洗濯洗剤、台所洗剤、石鹸、トイレットペーパー。子どもたちのノートや画用紙、集金袋へ入れる金。岩蔵の紙おむつ、清拭用の布、使い捨ての手袋。通院のたびに使うバスとタクシーの代金も、すべてこの五万円から出すよう言われている。
紬は頁の右側へ、必要な金額を一つずつ書いた。
紙おむつを二袋買えば、残りは四万円ほどになる。米櫃の底は見え始めており、味噌もあと三日分しかない。洗剤は水を足して使っているが、それも今夜までだろう。
凌雅が昨夜、模試の申込用紙を冷蔵庫へ貼っていた。
締切は金曜日。受験料六千八百円。
書き出した数字の下へ線を引く。何度足しても、五万円を越えた。
越えた分は、自分が食べなければよい。洗髪を一日おきにすれば、シャンプーも減らせる。通勤を歩きに変えれば、雨の日のバス代が浮く。
そうやって削れるものを探すたび、最後にはいつも紬自身しか残らなかった。
エプロンのポケットから、先ほどのカード利用票を取り出す。
四万八千六百円。
卓臣が昨夜一晩で使った金は、十人が一か月を暮らすための金と千四百円しか違わない。
利用票を青い手帳の頁へ挟み、紬は一瞬、指を止めた。
こんなものを残して、何になるのだろう。
誰かに見せる当てもない。問いただせば怒鳴られる。実家へ訴えても、静江は夫に恥をかかせる妻の方が悪いと言うだろう。
それでも捨てられなかった。
手帳を乾物缶の底へ戻そうとした時、居間から八重の声が飛んだ。
「いつまで食器を放っておくんだい!」
「いま片づけます」
紬は利用票を手帳ごと隠した。急いで立ち上がると、空腹の胃がきり、と縮んだ。
午前八時二十分。
スーパーの従業員口には、雨に濡れた段ボールと消毒液の匂いが籠もっていた。
紬は息を切らしながら打刻機へカードを通した。家から駅まで走り、電車を降りてからも走ったが、指定された早出時刻の二分前だった。
「御厨さん」
背中へ鋭い声が刺さる。
振り向くと、織部奈津子が腕時計を示していた。濃い口紅を引いた唇が、わずかに歪んでいる。
「早出を頼んだ日は、普通もっと余裕を持って来るものじゃない?」
「申し訳ありません」
「言われた時間に間に合えばいいって考えが、もう甘いのよ。二番レジ、釣り銭を合わせておいて。あと、山下さんが休みだから品出しもお願い」
「分かりました」
「返事だけは立派ね」
奈津子の靴音が、硬い床を遠ざかっていく。
紬はロッカーの前で濡れた髪を手櫛で整え、制服へ着替えた。手首の傷が見えないよう、シャツの袖をぎりぎりまで下ろす。
扉の内側に、細長い封筒が差し込まれていた。
給与明細。
紬は周囲を確かめてから封を切った。基本給、手当、控除。細かな数字のいちばん下に、《差引支給額 一七八、〇〇〇円》と印字されている。
十七万八千円。
今日、紬の名義の口座へ振り込まれた金額だった。
明細の左上には《御厨 紬》とある。働いた者の名前も、振込先の名義も紬だった。それなのに、その金へ触れる権利だけが彼女にはない。
けれど通帳もキャッシュカードも卓臣が持っている。インターネットで残高を確かめるための暗証番号も、いつの間にか変更されていた。紬がひと月働いた金は、数字として目の前を通り過ぎるだけで、手元には一円も残らない。
生活費として投げられた五万円さえ、卓臣の金ということになっている。
明細を畳む指が震えた。
十七万八千円あれば、凌雅の模試代を払える。岩蔵の紙おむつも買える。米櫃を満たし、湊人の小さくなった運動靴を替えることもできる。
どれも贅沢ではない。
紬は明細を鞄の内ポケットへしまった。ロッカーへ残しておけば、誰かに見られるかもしれない。家へ持ち帰れば、卓臣に取り上げられる。それでも、捨てることだけはできなかった。
「御厨さん、何してるの!」
売場から奈津子の声が響いた。
紬はロッカーを閉め、痛む足を動かした。
午前中は、客足が途切れなかった。
レジを打ち、籠を運び、苦情を受け、空いた時間に飲料の箱を棚へ積む。傷のある手首へ箱の角が当たるたび、熱を持った痛みが腕まで走った。
客が値札を見間違えた時も、奈津子は紬を呼んだ。
「御厨さんの説明不足で申し訳ございません」
客の前でそう言い、奈津子は紬の後頭部へ視線を落とした。
「ほら、頭を下げて」
「申し訳ございませんでした」
紬が腰を折ると、客は気まずそうに目を逸らした。間違えたのは自分だと言いかけた唇も、奈津子の笑顔を前に閉じてしまう。
正午を二十分過ぎて、ようやく休憩へ入れた。
休憩室の蛍光灯は一本切れかけ、青白く明滅していた。紬は隅の席へ座り、鞄から小さな紙包みを出す。
中にあるのは、乾いた食パンの耳だった。
昨夜、子どもたちが夜食に食べたサンドイッチから切り落とし、皿へ残していたものだ。捨てれば八重に叱られる。朝はあの器へ入れられた残り物を急いで飲み込んだだけで、弁当を作る米もおかずも紬の分まではなかった。
硬くなったパンの耳を一つ、口へ運ぶ。
噛むたび、上顎の裏へ乾いた欠片が刺さった。給湯器の白湯で流し込むと、空腹だけがいっそうはっきりした。
「それ、お昼?」
顔を上げると、奈津子が立っていた。
片手には専門店のロゴが入った紙袋を提げ、もう片方の手にはクリームののったコーヒーを持っている。甘い香りが休憩室へ広がった。
「はい」
「パンの耳だけ?」
奈津子は驚いたように眉を上げ、それから隣にいた従業員へ顔を向けた。
「やだ、今どき犬だってもっといいもの食べるわよ」
小さな笑いが起きた。
紬は紙包みの端を折り、見えないように手のひらで覆った。
「五人も産むから貧乏になるのよ。計画性って大事よねえ」
奈津子は悪意などないような声で言い、自分の椅子へ腰を下ろした。
「それとも、子だくさんだと何か得するの? 手当とか」
「……すみません」
「何で私に謝るのよ。惨めったらしい」
また笑い声がした。
紬は残ったパンの耳を包み直した。今ここで食べれば、咀嚼する口元まで見られる。空腹より、喉の奥へ固まったものの方が重かった。
休憩開始から八分も経たないうちに、店内放送で二番レジの応援が求められた。
奈津子はコーヒーの蓋を開けながら、顎を上げた。
「御厨さん、行って。私は今から休憩だから」
紬は立ち上がった。
紙包みを鞄へ戻す。その中で、食べられなかったパンの耳が、乾いた音を立てて折れた。
退勤時刻を四十分過ぎてから、紬はようやく売場を離れた。
青果売場の端には、傷のついた大根、萎れかけた小松菜、外葉の破れたキャベツが集められていた。鮮魚では、消費期限の迫った鮭のあらに値引きの札が貼られている。
紬は従業員価格で買えるものだけを選んだ。潰れた豆腐、切れた油揚げ、鶏皮の多い切り落とし。籠の中へ入れた品を何度も計算し、千円札一枚で足りるところまで減らす。
レジで会計を済ませると、財布に残ったのは数枚の硬貨だけだった。
それでも今夜の食卓には、八品を並べなければならない。
帰宅した時には、外はすっかり暗くなっていた。
玄関を開けた途端、八重の声が飛んでくる。
「遅い! おじいちゃんのおむつ、誰が替えると思ってるの」
「申し訳ありません。すぐに伺います」
買い物袋を持ち直した紬は、たたきの中央に置かれた黒い旅行鞄へ気づいた。
卓臣のものだった。
廊下の向こうから、ワイシャツ姿の卓臣が現れる。紺色のネクタイを緩め、手には財布と車の鍵を持っていた。
「二泊で出張だ。余計な連絡をしてくるな」
「今日からですか」
「見りゃ分かるだろ」
紬は買い物袋を台所へ置き、手を洗ってから卓臣の寝室へ向かった。ベッドの上には、二泊分の着替えが乱雑に放られている。
鞄へ詰める前に、どうしても確認しなければならないことがあった。
「卓臣さん」
名前を呼んでも、彼は返事をしなかった。
「凌雅の模試代なんですが、金曜日までに六千八百円が必要で……」
「朝、五万渡しただろ」
「紙おむつとお米を買うと、足りなくなります。私のお給料も今日、十七万八千円入っているはずなので、そこから少しだけ――」
「は?」
卓臣の眉が吊り上がった。
「十七万ぽっちで、稼いでるつもりかよ」
「そういう意味ではなくて」
「お前の稼ぎが少ないからだろ。必要な金も出せないなら、もっと働けよ」
財布を握った手が乱暴に振られた。
革の隙間から白い紙が抜け落ち、紬の足元へ滑った。
反射的に拾う。厚手の紙には、高級クラブの店名と昨夜の日付が印字されていた。
合計、一二六、〇〇〇円。
一晩で、十二万六千円。
今朝見つけた四万八千六百円とは、別の店だった。
紬の呼吸が止まった。
「落ちました」
ただ渡そうとしただけだった。
卓臣の掌が頬へ飛んできた。
乾いた音が寝室へ響き、視界が横へ揺れた。耳の奥で高い音が鳴り、口の中に鉄の味が広がる。紬はよろめき、ベッドの縁へ手をついた。
「勝手に見るな」
卓臣は領収書を奪い取った。
「財布を漁ったのか? 気持ち悪い女だな」
「拾っただけです」
「言い訳すんな」
頬の内側を噛んだらしく、唾を飲み込むたび傷が沁みた。紬は顔を上げられないまま、短く息を吸った。
寝室の入口に、八重が立っていた。
助けを求めるより先に、八重はため息をつく。
「夫の財布を覗くなんて、卑しい真似をするんじゃないよ」
「違います。落ちたものを――」
「口答えはいいから、早く支度してやりなさい。卓臣を遅らせたら承知しないよ」
八重の背後に、湊人の顔が半分だけ覗いていた。
紬の腫れ始めた頬を見た瞬間、小さな瞳が見開かれる。だが八重が振り返ると、湊人は足音も立てずに消えた。
卓臣は舌打ちし、領収書を財布の奥へ押し込んだ。
「シャツ三枚。皺にならないように入れろよ」
紬は返事をし、ベッドの上へ散らばった衣類を畳み始めた。
指が震え、布地の端をうまく揃えられない。頬は脈打つように熱いのに、身体の芯だけが冷えていた。
一枚目のワイシャツを畳む。二枚目も同じ幅に揃える。
三枚目を持ち上げた時、襟元から甘い花の香りが漂った。
百合にも薔薇にも似ていない、濃く艶のある香り。
柔軟剤ではない。八重も茉白も結莉も使っていない。紬自身は、香水などもう十年以上買ったことがなかった。
今朝、卓臣が脇を通り過ぎた時にも、同じ香りがした。
「何止まってんだよ」
背後から声が落ちる。
「……何でもありません」
紬はワイシャツを畳み、旅行鞄の中へ収めた。
襟へ触れた指先にまで、知らない女の甘い花の香りが移っていた。
その日、紬がレンタルルームへ持ってきた鞄は、いつもより少しだけ重かった。中に入っているのは着替えでも食事でもなく、薄い大学ノートが三冊と、透明なファイルへ挟んだ銀行明細やレシートの写しだった。長年使い続けてきた家計簿の一部で、表紙の角は擦れ、何度も開閉したページの端には油や水の薄い染みが残っている。子どもが幼かった頃に書いた鉛筆の数字と、最近の細いボールペンの文字が同じ一冊の中に並び、紬が何年も同じ台所で金額を削り続けてきた時間そのもののように見えた。 律は机の向こうへ座り、紬が一冊目を開くまで何も尋ねなかった。今日はスープも菓子もなく、二人分のペットボトルの茶だけが机の端に置かれている。紬は最初のページをめくり、五万円と大きく書かれた月で指を止めた。「これ、まだ生活費が五万円だった時」「十人で?」「うん」「食費だけ?」「食費と日用品と、学校で急に必要になったもの。病院代は卓臣が出すって言ってたけど、細かい診療代は結局ここから払うことも多かった」 律は眉を寄せたが、何も言わずページへ目を落とした。米、肉、魚、牛乳、洗剤、トイレットペーパー、学校用品。数字は一円単位で細かく並んでいる。月末へ近づくにつれて、肉の回数が減り、豆腐ともやしが増え、紬自身の昼食欄だけが空白になる日が多くなっていた。「この頃から、自分の分減らしてた?」「減らすっていうより、残ったものを食べてた」「残らなかったら?」「食べない」 答えてから、紬は自分でも平然と言いすぎたと思った。律の表情が少し曇る。それでも彼は「何でそんなことを」と責めるようには言わず、次のページへ目を移した。「これが三万円になった月」 紬は別のノートを開く。赤いペンで〈三〇、〇〇〇円〉と書かれ、その下へ日付ごとの支出が並んでいる。月の半ばを過ぎたところから、買い物の内容が明らかに変わっていた。豚肉の代わりに鶏むね肉、刺身の代わりに豆腐、果物は安いバナナだけ。八重が要求する八品を維持するため、同じ材料を切り方と味付けで別料理に見せている日もある。「ここ、何で一日食費四百円台なんだ」「前の日の残りと、冷凍してあったもの使ったから」「十人分?」「うん」「無理だろ」「だから、私の分を数えなかった」 律は何か言いかけてやめた。紬はその沈黙の意味が分かった。以前なら、自分でも「でも仕方なかった
卓臣の会社から家族同伴の食事会があると聞かされた時、紬が最初に考えたのは、誰が岩蔵を見るのかということだった。八重は「たまには嫁らしく夫の顔を立ててきな」と言い、自分が数時間くらい父親のそばにいるから問題ないと答えたが、その口ぶりだけで、帰宅後に何を言われるかは想像できた。子どもたちは同行せず、夫婦だけで出席するらしい。卓臣は紬へ予定を相談するのではなく、三日前になって日時と場所を告げ、当日は仕事を早退するよう命じた。「会社には自分で話します」「休めばいいだろ」「早退できるか確認します」「俺の会社の付き合いなんだから、それくらい合わせろよ」 以前なら、その場で謝って店長へ無理を言ったかもしれない。今の紬は勤務表を確認し、交代可能な従業員がいることを確かめた上で、一時間だけ早く上がれないか申し出た。理由も「家族行事」とだけ伝えた。鴨志田は以前のように夫から何か連絡があったのかとは聞かず、「分かりました」と勤務変更を記録に残した。 当日の夕方、紬が帰宅すると、卓臣はすでに支度を終えていた。紺色のスーツに新しいネクタイを締め、鏡の前で髪を整えている。ベッドの上には、紬が数年前に親族の結婚式用として買った濃紺のワンピースが置かれていた。「それ着ろ」「これ?」「スーパーの制服みたいな格好で来られたら困るからな」 紬は黙って着替えた。ワンピースは以前より少し緩くなっている。体重が落ちたせいで、腰のあたりに余分な布ができていた。化粧も最低限だけ整え、髪を一つにまとめる。卓臣は玄関へ出る前に紬を頭から足まで確認し、口紅が薄いと言って自分の指で紬の口元へ触れようとした。「自分で直します」 紬が顔を引くと、卓臣の眉が動いた。「今日くらい普通にしろよ」「何が普通なの」「夫婦としてだよ」 その言葉を聞きながら、紬は口紅を塗り直した。 会場は都心のホテルにあるレストランだった。卓臣の会社の取引先や同僚、管理職とその家族が集まり、円卓ごとに名前が決められている。受付へ着いた瞬間から、卓臣の表情は家にいる時とは別人のように柔らかくなった。「妻の紬です」 名前を呼ばれた。 家では滅多に呼ばない名前を、卓臣は他人の前ではためらいなく使う。「五人もお子さんがいるんですよね」 同僚の妻らしい女性が驚いたように言う。「そうなんです。全部妻が頑張ってくれてい
誕生日会から二日後、紬はレンタルルームの扉を開けた瞬間、まず律の顔を見た。頬にも手にも新しい傷はなく、それだけで胸の奥が少し緩む。けれど安堵のすぐ後に、華怜の家で何があったのかという不安が戻ってきた。あの夜、律は皆の前で紬へケーキを渡し、椅子まで運んだ。華怜も卓臣も、二人の関係を疑っている。今ここで会うこと自体、本来なら避けた方が安全なのだと、紬にも分かっていた。 部屋には、いつもの二脚の椅子と小さな机、壁際の古いソファがある。今日は食事を用意していなかった。律は先に着いていたが、紬が入ってもすぐには近づかず、机の向こうで立ったまま待っている。紬が椅子へ座るのを見てから、ようやく自分も向かいへ腰を下ろした。「この前は、ごめん」 律が先に言った。「何が?」「誕生日会。俺が余計なことした」 言い訳を探すような声ではなかった。紬は鞄を膝へ置き、その留め具へ指をかけたまま律を見る。「困らせたと思う」「……うん」 紬は否定しなかった。「怖かった。華怜も見てたし、卓臣も怒ってた。あの場で律が私にケーキ渡したら、また何か疑われるって分かった」「ああ」「椅子まで持ってきたでしょう」「それも悪かった」 律は短く答えた。「前に久世家でもやったから、同じことをすればいいと思った。でも今は状況が違う。紬が自分で距離を決めようとしてるのに、俺が先に動いた」 その言葉に、紬は少しだけ目を伏せた。怒っているわけではない。むしろ、あの日渡されたケーキをまだ覚えている。自分の名前が書かれていない大きなケーキの端を、小皿へ載せて差し出された時、家族全員の前で手が震えた。それでも皿を床へ置かず、一口だけ食べた。「うれしくもあった」 律の目が上がる。「怖かったけど、うれしかった」「どっちなんだ」「両方」 紬は自分でも少し笑った。「私、あの時、本当に食べちゃいけないと思ってたんだよ。華怜のためのケーキだから。私の名前は書いてないし、お義母さんもお母さんも、私は祝われる側じゃないって言ってたから」「それは違うと思った」「うん。それを、律が皿ごと渡してくれたでしょう」 紬はそこで一度言葉を止めた。「だから、自分にも食べる権利があるんだって分かった」 律は何も言わずに聞いている。「でも、今度からは私に選ばせて」 紬ははっきり言った。「食べるかどうか
午後六時を回るころには、御厨家の食卓だけでは皿が収まらなくなっていた。紬が早朝から仕込んだ料理は十二品あり、鯛の塩焼き、筑前煮、茶碗蒸し、甘い出汁巻き卵、華怜が好きな海老の含め煮まで、大皿と小鉢が居間の座卓にも並べられている。仕事から戻って休む間もなく仕上げた料理だったが、八重は数を確かめるより先に鍋の中を覗き、「これ、十人分くらいしかないじゃないか」と眉を吊り上げた。今日は静江と隆、華怜と律まで来るため、普段の食卓より人数が多いことなど、紬にも分かっていた。それでも材料費を増やす金は渡されておらず、三万円に減らされた生活費の残りと自分の財布から出さずに済む範囲で、豆腐や根菜を使って量を増やしていた。「足りなかったらどうするんだい。華怜ちゃんの誕生日なんだよ」「十二品あります。ご飯も多めに炊いてあります」「品数の話じゃないよ。客に遠慮させるようじゃ嫁の恥だって言ってるんだ」 八重はそう言いながら、海老の大皿から一番形の良いものを華怜の席になる皿へ先に取り分けた。紬は言い返さず、鍋の底に残った筑前煮を別の鉢へ移し、見た目だけでも量があるよう整えた。今日は自分も誕生日だと昼までは意識していたはずなのに、家へ帰って台所へ立ってからは、またいつものように「何人分足りるか」「誰が何を嫌うか」ばかりを考えている。昼休みに食べた小さなプリンと、律が言った「誕生日おめでとう、紬」という声だけが、朝から続いている一日の中で別の場所に置かれた記憶のようだった。 六時半を過ぎたころ、静江と隆が到着し、その十分後に華怜と律が来た。華怜は淡い生成り色のワンピースに金木犀の香水をまとい、誕生日の主役らしく髪まで丁寧に巻いている。静江は玄関で娘を抱きしめ、「今年も元気にこの日を迎えられてよかった」と目を潤ませた。そのすぐ横で靴を揃えていた紬には、誕生日について何の言葉もなかった。隆は紬と一瞬目を合わせたが、「料理、大変だったな」とだけ言い、そのまま居間へ入った。「姉ちゃん、これ全部作ったの?」「うん」「すごい。でも、この卵焼きちょっと色違うね。昔はもっと黄色かった気がする」 華怜が笑いながら出汁巻き卵を見た直後、静江が一切れ口へ運んだ。咀嚼してから首を傾げ、「華怜が好きだった味と違うわね。昔はもっと甘かったでしょう」と言う。紬は砂糖を増やして作ったことを伝えたが、静江は「病
八月の終わりが近づくと、御厨家の食卓に華怜の名前が増え始めた。最初に言い出したのは八重で、夕食後の茶を飲みながら、今年はちゃんとした食事会にしようと卓臣へ話していた。華怜は身体が弱かったのに、今年も無事に誕生日を迎えられるのだから祝わなければならないという。紬は流し台で十人分の皿を洗いながら、その会話を背中で聞いていた。「鯛は尾頭つきがいいね。華怜ちゃん、昔から見栄えのいいものが好きだから」「ケーキは俺が頼むよ」「去年みたいな小さいのじゃ駄目だよ。せっかくの誕生日なんだから」 卓臣と八重の声が続く。結莉はどんなケーキなのかと尋ね、茉白は華怜の好きな店なら駅前の洋菓子店だと口を挟んだ。凌雅と颯真も、どうせなら自分たちも食べられる大きいものにしてほしいと笑っている。その場にいる誰も、華怜と同じ日に生まれた人間が流しの前に立っていることへ触れなかった。 紬は洗剤の泡を流しながら、自分でも驚くほど静かな気持ちでその事実を受け止めていた。三十八回近く繰り返してきたことだった。双子なのだから誕生日は同じはずなのに、久世家ではいつも華怜の体調が中心になり、結婚してからは御厨家までそれを当然のように引き継いだ。悲しくないわけではない。ただ、悲しいと感じる前に「仕方がない」と自分へ言い聞かせる癖の方が、長い年月をかけて先に動くようになっていた。 翌日、静江から電話が来た。紬が休憩に入った直後で、画面に母の名前が出た瞬間に胃の奥が重くなる。それでも出なければ何度も着信が続くことを知っているため、人気のない従業員通路の端で応答した。『華怜の誕生日プレゼント、今年はこの化粧品にするから』「何の話?」『限定のセット。八万くらいするけど、華怜が前から欲しがってたの。あんたも半分出して』 紬は壁に背を預けた。生活費は三万円のままで、新しい口座に一万円だけ残せるようになったばかりだ。その一万円は、自分がようやく自分の名前で守れた金だった。「払えないよ」『また?』「またじゃなくて、払えない」『あんた、姉でしょう。誕生日くらい妹を祝ってあげようと思わないの?』「私も同じ誕生日だよ」 電話の向こうが一瞬静かになった。静江はその事実を知らなかったわけではない。ただ、忘れていたことを指摘された人のように、少し間を置いてから不機嫌そうな声を出した。『だから何なの。華怜は病
午前六時四十二分、紬は駅前の雑居ビルの階段を上がった。外はもう明るくなっていたが、朝の空気には夜の名残があり、日中ほどの暑さはない。それでも、家から駅まで自転車を走らせ、そのまま早足でここまで来たせいで、制服の下の背中には薄く汗がにじんでいた。スーパーの始業は午前八時。借りた部屋を出て電車へ乗り、従業員入口からロッカーへ向かう時間まで考えれば、二人に許されているのは四十五分しかなかった。 今朝も午前四時二十分に起きた。五人分の弁当へ米を詰め、鮭を焼き、卵を巻き、十人分の味噌汁を用意した。岩蔵には別に柔らかく煮た野菜を用意し、薬を飲ませ、夜中に汚れたタオルも洗濯機へ入れた。八重からは味噌汁の具が少ないと言われ、凌雅には弁当の肉を増やせと言われたが、六時十一分には家を出られた。自分の朝食だけは、台所へ置いたままの茶碗にさえ用意していなかった。 部屋の扉を開けると、律はすでに来ていた。濃紺のスーツに白いシャツ、ネクタイまで締めており、そのまま取引先へ向かっても不自然ではない姿だった。いつもの二脚の椅子と古いソファがあるだけの部屋で、仕事前の男が鞄を足元へ置いている光景は、どこか会議の待ち時間にも見える。「おはよう」「おはよう。早かった?」「十分くらい」「ごめん」「謝るところじゃない」 律はそう答え、机の上を示した。紙の容器へ入った味噌汁が二つ、包装された鮭のおにぎりが二つずつ置かれ、紙ナプキンと割り箸まで並んでいる。コンビニの袋から出しただけの朝食なのに、自分の前にも一人分があることを見た瞬間、紬は鞄を下ろす手を止めた。「食べてきたって言ったら?」「多分、嘘だと思う」「何で」「朝から十人分作った日は、紬は自分の分を後回しにするから」 言い返せなかった。律に生活の癖を知られていることが少し恥ずかしく、同時に、責めるためではなく食事を用意するために覚えられていたことがくすぐったい。紬は向かいの椅子を引き、もう「座っていい?」とは聞かずに腰を下ろした。「今日は鮭なんだ」「嫌だった?」「家でも鮭焼いてきた」「じゃあ別のにすればよかったな」「ううん。自分で焼いたのに、自分では食べてないから」 紬は包装を開いた。まだほんのり温かく、海苔の匂いがする。家で焼いた鮭は凌雅の弁当へ大きい部分を入れ、残りを五つへ分けたため、味見すらしていなかった。目