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第2話 十人で五万円

Auteur: なつめ
last update Date de publication: 2026-07-26 18:05:50

 ステンレスの器を洗い終えた頃には、台所の時計は七時を回っていた。

 冷たい水に晒された指先は赤く腫れ、ひび割れた親指のガーゼには味噌汁の色が滲んでいる。紬は蛇口を締め、器を水切り籠のいちばん下へ伏せた。茶碗や汁椀と同じ高さへ置けば、八重に叱られる。犬のものを人間の食器と一緒にするな、と。

 三年前に犬が死んでから、それを使っているのは紬だけだった。

 背後を振り返る。

 八重は岩蔵の部屋へ戻り、繁政も新聞を抱えて居間へ移っていた。束の間、台所には冷蔵庫の低い唸りだけが残っている。

 紬は床へ落とされた白い封筒を、作業台の隅で開いた。

 一万円札が五枚。

 一度数えた金を、もう一度数える。重なった紙幣の端を親指で送り、五枚目まで確かめても、六枚目が現れることはなかった。

 封筒の表には、金額も宛名もない。

 紬は戸棚の奥から、小さな青い手帳を取り出した。表紙には油染みがつき、角が丸く潰れている。八重が台所を調べる時にも触れないよう、乾物を入れた缶の底へ隠しているものだった。

 新しい頁に日付を書き、《生活費 50000円》と記す。

 米。味噌。肉や魚。野菜。牛乳。十人分の食費だけではない。

 洗濯洗剤、台所洗剤、石鹸、トイレットペーパー。子どもたちのノートや画用紙、集金袋へ入れる金。岩蔵の紙おむつ、清拭用の布、使い捨ての手袋。通院のたびに使うバスとタクシーの代金も、すべてこの五万円から出すよう言われている。

 紬は頁の右側へ、必要な金額を一つずつ書いた。

 紙おむつを二袋買えば、残りは四万円ほどになる。米櫃の底は見え始めており、味噌もあと三日分しかない。洗剤は水を足して使っているが、それも今夜までだろう。

 凌雅が昨夜、模試の申込用紙を冷蔵庫へ貼っていた。

 締切は金曜日。受験料六千八百円。

 書き出した数字の下へ線を引く。何度足しても、五万円を越えた。

 越えた分は、自分が食べなければよい。洗髪を一日おきにすれば、シャンプーも減らせる。通勤を歩きに変えれば、雨の日のバス代が浮く。

 そうやって削れるものを探すたび、最後にはいつも紬自身しか残らなかった。

 エプロンのポケットから、先ほどのカード利用票を取り出す。

 四万八千六百円。

 卓臣が昨夜一晩で使った金は、十人が一か月を暮らすための金と千四百円しか違わない。

 利用票を青い手帳の頁へ挟み、紬は一瞬、指を止めた。

 こんなものを残して、何になるのだろう。

 誰かに見せる当てもない。問いただせば怒鳴られる。実家へ訴えても、静江は夫に恥をかかせる妻の方が悪いと言うだろう。

 それでも捨てられなかった。

 手帳を乾物缶の底へ戻そうとした時、居間から八重の声が飛んだ。

「いつまで食器を放っておくんだい!」

「いま片づけます」

 紬は利用票を手帳ごと隠した。急いで立ち上がると、空腹の胃がきり、と縮んだ。

 午前八時二十分。

 スーパーの従業員口には、雨に濡れた段ボールと消毒液の匂いが籠もっていた。

 紬は息を切らしながら打刻機へカードを通した。家から駅まで走り、電車を降りてからも走ったが、指定された早出時刻の二分前だった。

「御厨さん」

 背中へ鋭い声が刺さる。

 振り向くと、織部奈津子が腕時計を示していた。濃い口紅を引いた唇が、わずかに歪んでいる。

「早出を頼んだ日は、普通もっと余裕を持って来るものじゃない?」

「申し訳ありません」

「言われた時間に間に合えばいいって考えが、もう甘いのよ。二番レジ、釣り銭を合わせておいて。あと、山下さんが休みだから品出しもお願い」

「分かりました」

「返事だけは立派ね」

 奈津子の靴音が、硬い床を遠ざかっていく。

 紬はロッカーの前で濡れた髪を手櫛で整え、制服へ着替えた。手首の傷が見えないよう、シャツの袖をぎりぎりまで下ろす。

 扉の内側に、細長い封筒が差し込まれていた。

 給与明細。

 紬は周囲を確かめてから封を切った。基本給、手当、控除。細かな数字のいちばん下に、《差引支給額 一七八、〇〇〇円》と印字されている。

 十七万八千円。

 今日、紬の名義の口座へ振り込まれた金額だった。

 明細の左上には《御厨 紬》とある。働いた者の名前も、振込先の名義も紬だった。それなのに、その金へ触れる権利だけが彼女にはない。

 けれど通帳もキャッシュカードも卓臣が持っている。インターネットで残高を確かめるための暗証番号も、いつの間にか変更されていた。紬がひと月働いた金は、数字として目の前を通り過ぎるだけで、手元には一円も残らない。

 生活費として投げられた五万円さえ、卓臣の金ということになっている。

 明細を畳む指が震えた。

 十七万八千円あれば、凌雅の模試代を払える。岩蔵の紙おむつも買える。米櫃を満たし、湊人の小さくなった運動靴を替えることもできる。

 どれも贅沢ではない。

 紬は明細を鞄の内ポケットへしまった。ロッカーへ残しておけば、誰かに見られるかもしれない。家へ持ち帰れば、卓臣に取り上げられる。それでも、捨てることだけはできなかった。

「御厨さん、何してるの!」

 売場から奈津子の声が響いた。

 紬はロッカーを閉め、痛む足を動かした。

 午前中は、客足が途切れなかった。

 レジを打ち、籠を運び、苦情を受け、空いた時間に飲料の箱を棚へ積む。傷のある手首へ箱の角が当たるたび、熱を持った痛みが腕まで走った。

 客が値札を見間違えた時も、奈津子は紬を呼んだ。

「御厨さんの説明不足で申し訳ございません」

 客の前でそう言い、奈津子は紬の後頭部へ視線を落とした。

「ほら、頭を下げて」

「申し訳ございませんでした」

 紬が腰を折ると、客は気まずそうに目を逸らした。間違えたのは自分だと言いかけた唇も、奈津子の笑顔を前に閉じてしまう。

 正午を二十分過ぎて、ようやく休憩へ入れた。

 休憩室の蛍光灯は一本切れかけ、青白く明滅していた。紬は隅の席へ座り、鞄から小さな紙包みを出す。

 中にあるのは、乾いた食パンの耳だった。

 昨夜、子どもたちが夜食に食べたサンドイッチから切り落とし、皿へ残していたものだ。捨てれば八重に叱られる。朝はあの器へ入れられた残り物を急いで飲み込んだだけで、弁当を作る米もおかずも紬の分まではなかった。

 硬くなったパンの耳を一つ、口へ運ぶ。

 噛むたび、上顎の裏へ乾いた欠片が刺さった。給湯器の白湯で流し込むと、空腹だけがいっそうはっきりした。

「それ、お昼?」

 顔を上げると、奈津子が立っていた。

 片手には専門店のロゴが入った紙袋を提げ、もう片方の手にはクリームののったコーヒーを持っている。甘い香りが休憩室へ広がった。

「はい」

「パンの耳だけ?」

 奈津子は驚いたように眉を上げ、それから隣にいた従業員へ顔を向けた。

「やだ、今どき犬だってもっといいもの食べるわよ」

 小さな笑いが起きた。

 紬は紙包みの端を折り、見えないように手のひらで覆った。

「五人も産むから貧乏になるのよ。計画性って大事よねえ」

 奈津子は悪意などないような声で言い、自分の椅子へ腰を下ろした。

「それとも、子だくさんだと何か得するの? 手当とか」

「……すみません」

「何で私に謝るのよ。惨めったらしい」

 また笑い声がした。

 紬は残ったパンの耳を包み直した。今ここで食べれば、咀嚼する口元まで見られる。空腹より、喉の奥へ固まったものの方が重かった。

 休憩開始から八分も経たないうちに、店内放送で二番レジの応援が求められた。

 奈津子はコーヒーの蓋を開けながら、顎を上げた。

「御厨さん、行って。私は今から休憩だから」

 紬は立ち上がった。

 紙包みを鞄へ戻す。その中で、食べられなかったパンの耳が、乾いた音を立てて折れた。

 退勤時刻を四十分過ぎてから、紬はようやく売場を離れた。

 青果売場の端には、傷のついた大根、萎れかけた小松菜、外葉の破れたキャベツが集められていた。鮮魚では、消費期限の迫った鮭のあらに値引きの札が貼られている。

 紬は従業員価格で買えるものだけを選んだ。潰れた豆腐、切れた油揚げ、鶏皮の多い切り落とし。籠の中へ入れた品を何度も計算し、千円札一枚で足りるところまで減らす。

 レジで会計を済ませると、財布に残ったのは数枚の硬貨だけだった。

 それでも今夜の食卓には、八品を並べなければならない。

 帰宅した時には、外はすっかり暗くなっていた。

 玄関を開けた途端、八重の声が飛んでくる。

「遅い! おじいちゃんのおむつ、誰が替えると思ってるの」

「申し訳ありません。すぐに伺います」

 買い物袋を持ち直した紬は、たたきの中央に置かれた黒い旅行鞄へ気づいた。

 卓臣のものだった。

 廊下の向こうから、ワイシャツ姿の卓臣が現れる。紺色のネクタイを緩め、手には財布と車の鍵を持っていた。

「二泊で出張だ。余計な連絡をしてくるな」

「今日からですか」

「見りゃ分かるだろ」

 紬は買い物袋を台所へ置き、手を洗ってから卓臣の寝室へ向かった。ベッドの上には、二泊分の着替えが乱雑に放られている。

 鞄へ詰める前に、どうしても確認しなければならないことがあった。

「卓臣さん」

 名前を呼んでも、彼は返事をしなかった。

「凌雅の模試代なんですが、金曜日までに六千八百円が必要で……」

「朝、五万渡しただろ」

「紙おむつとお米を買うと、足りなくなります。私のお給料も今日、十七万八千円入っているはずなので、そこから少しだけ――」

「は?」

 卓臣の眉が吊り上がった。

「十七万ぽっちで、稼いでるつもりかよ」

「そういう意味ではなくて」

「お前の稼ぎが少ないからだろ。必要な金も出せないなら、もっと働けよ」

 財布を握った手が乱暴に振られた。

 革の隙間から白い紙が抜け落ち、紬の足元へ滑った。

 反射的に拾う。厚手の紙には、高級クラブの店名と昨夜の日付が印字されていた。

 合計、一二六、〇〇〇円。

 一晩で、十二万六千円。

 今朝見つけた四万八千六百円とは、別の店だった。

 紬の呼吸が止まった。

「落ちました」

 ただ渡そうとしただけだった。

 卓臣の掌が頬へ飛んできた。

 乾いた音が寝室へ響き、視界が横へ揺れた。耳の奥で高い音が鳴り、口の中に鉄の味が広がる。紬はよろめき、ベッドの縁へ手をついた。

「勝手に見るな」

 卓臣は領収書を奪い取った。

「財布を漁ったのか? 気持ち悪い女だな」

「拾っただけです」

「言い訳すんな」

 頬の内側を噛んだらしく、唾を飲み込むたび傷が沁みた。紬は顔を上げられないまま、短く息を吸った。

 寝室の入口に、八重が立っていた。

 助けを求めるより先に、八重はため息をつく。

「夫の財布を覗くなんて、卑しい真似をするんじゃないよ」

「違います。落ちたものを――」

「口答えはいいから、早く支度してやりなさい。卓臣を遅らせたら承知しないよ」

 八重の背後に、湊人の顔が半分だけ覗いていた。

 紬の腫れ始めた頬を見た瞬間、小さな瞳が見開かれる。だが八重が振り返ると、湊人は足音も立てずに消えた。

 卓臣は舌打ちし、領収書を財布の奥へ押し込んだ。

「シャツ三枚。皺にならないように入れろよ」

 紬は返事をし、ベッドの上へ散らばった衣類を畳み始めた。

 指が震え、布地の端をうまく揃えられない。頬は脈打つように熱いのに、身体の芯だけが冷えていた。

 一枚目のワイシャツを畳む。二枚目も同じ幅に揃える。

 三枚目を持ち上げた時、襟元から甘い花の香りが漂った。

 百合にも薔薇にも似ていない、濃く艶のある香り。

 柔軟剤ではない。八重も茉白も結莉も使っていない。紬自身は、香水などもう十年以上買ったことがなかった。

 今朝、卓臣が脇を通り過ぎた時にも、同じ香りがした。

「何止まってんだよ」

 背後から声が落ちる。

「……何でもありません」

 紬はワイシャツを畳み、旅行鞄の中へ収めた。

 襟へ触れた指先にまで、知らない女の甘い花の香りが移っていた。

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Commentaires (1)
goodnovel comment avatar
小島昭美(まどか)
余りにも残酷過ぎて読めない、無理
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